盛岡の風景 吉田松陰と交流のあった「江幡五郎」という人

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 現在の北日本銀行本店のある所に、盛岡藩の藩校作人館がありました。
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 第13代藩主南部利剛公は、安政6年(1859年)に脱藩浪々中の「江幡五郎」を登用し和漢一致・文武不岐の方針を確立しました。
 慶応元年には、「明義堂」と呼ばれた藩校名を、「五郎」の建言により「作人館」と改めました。
 やがて、塾名のとおり「原敬」や「新渡戸稲造」など多くの偉人を輩出していますから、正に「作人館」の名の通りであったと思います。
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「江幡五郎」後の「那珂五郎道高」は、文政10年(1827年)南部藩奥医師「江幡通俊」の次男として生まれ、幼名を江幡堅弥のち五郎と呼ばれました。
 
 弘化2年(1845年)19歳の時、脱藩して江戸に出、「安積良斎」・「東条一堂」の塾に学びます。五郎の学問への欲求は留まらず、弘化4年(1847年)21歳には京都に上り、「森田節斎」の門に入ります。さらに嘉永元年(1848年)には、名声の高かった安芸の「坂井虎山」の門に入り塾頭を勤めました。

 作人館の歴史を引き継ぎ、設立された仁王小学校所蔵の『三小傳』には、最後文部省の御用掛となったとあります。
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 この遊学の期間に、南部家跡継ぎ騒動で兄「春庵」を失い、これを江戸で伝え聞き、仇討ちを果すため「吉田松陰」と「宮部鼎蔵」とともに安政4年(1857年)12月15日に江戸を出発します。二人と白河で別れ機会を窺いますがついに果たすことならず、江戸に戻ることになります。
 この後、南部藩主利剛公より声かかかり「作人館」の筆頭教授となりますが、本人も驚いたに違いありません。

 遊学から藩校教授となるまでの間、吉田松陰や桂小五郎を始め、明治維新の志士たちと交友を持ち、「作人館」の教授時代には戊辰戦争となり、その結果東京へ護送され幽閉されること3年に渡ります。明治4年9月27日特赦により自由の身となります。
 
 自由の身となった後は、東京に移り住み和漢の塾を開く傍ら、「桂小五郎」あらため「木戸孝充」の推挙により大蔵省に出仕後、文部省で小学読本の教科書の編纂に当たったようです。
 この時期に上京した「原敬」は学費に窮し、「共慣義塾」を出て同郷の「八角」と「江幡塾」を訪ね学僕として住み込みでお世話になっています。

 明治12年(1879年)5月1日友人宅で杯を傾けているときに、倒れて息絶えました。時に53歳でした。
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by bbex162546 | 2015-01-10 08:30 | 人物 | Comments(0)

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